●長崎医科大学は爆心地を見下ろす丘の上にあり、本館・各基礎学教室と医学専門部、及び薬学専門部からなり、隣接して臨床学教室でもある附属病院がありました。

 被爆当日、大学では1、2年生は講義を受け、3、4年生は附属病院の各教室にいました。木造の本館と校舎は原爆炸裂と同時に倒壊、そして火災を発生し全焼、附属病院は外壁は残りましたが、内部は破壊され焼失しました。講義中の5つの講堂の焼け跡からは学生が机に着席したままの姿で発見されました。職員、学生ら892人が犠牲となりました。

 このような状況の中でも奇跡的に生存した医者、看護婦、学生などの関係者が懸命の救護活動行った様子が『長崎医科大学原子爆弾救護報告』(1945年、永井隆)や『わすれな草』(調来助)に克明に記録されています。


長崎医科大学慰霊碑 (1957年 建立)


●医学部の正門を入ると、正面の奥まった所に小高い丘が見えます。この丘は「聖地・グビロが丘」と呼ばれています。つづら折りの小道を5分ほど登っていくと、広場があり、ノアザミやシオンの花が咲き乱れています。その中央に慰霊碑があります。
●原爆の犠牲となった学生達の慰霊と冥福を祈って、旧長崎医科大学原爆犠牲者遺族会が 建立したものです。
●慰霊碑には破損を免れた大講堂車寄せの右側角柱(花こう岩)が使われ、基部の納骨堂には、元集会所の水槽の中に集められていた遺骨が移しされて、ここに納めてあります。

長崎医科大学職員並びに学生慰霊の碑


●長崎大学医学部記念講堂正面入り口の壁面には、犠牲となった角尾晋学長はじめ教職員、事務職員、看護婦、医学部学生、附属医学部専門部生徒、附属薬学専門部生徒、附属看護学校生徒ら892人の名前が>銅板に刻まれ、掲げてあります。


長崎医科大学・同附属薬学専門部の正門門柱


●長崎大学医学部の校門裏口に、高さ1.7mの旧長崎医科大学時代の正門門柱が、被爆当時のまま保存されています。上空から吹きつけた爆風により9cmずれ、傾いたままになっています。門柱の側に建てられた石柱に「原爆の爆風のもの凄さをここに今尚ここに見る」と刻まれており、原爆の脅威が生々しく伝わってきます。


角尾晋先生胸像  (1959年8月9日、建立)

●長崎大学医学部記念講堂の前庭に、シーボルトのレリーフと並んで、被爆当時の長崎医科大学学長・角尾晋先生の胸像があります。 先生は8月9日10時過ぎ、内科学の講義を終え、病院本館の診察室で患者と対応している時に被爆、重傷を負いました。手当を受けましたが、急性原爆症のため52歳で亡くなりました。
 ●像の側にある銘板には、教え子達にとって忘れえぬ師の言葉「長崎を日本のハイデルブルグにするために私は一粒の麦になる」の言葉が刻まれています。