1992年、長崎市が平和公園に地下駐車場を作るために地面を掘り返した時、地中から赤レンガの扇状になった刑務支所の基盤と処刑場の地下部分が現われました。被爆前、ここには高いコンクリートに囲まれた長崎浦上刑務支所がありました。

 

 「此処は、爆心地より北に100m、最長350mの地点にあり、爆心地に最も近い公共の建物であった。‥‥‥中略‥‥‥ 刑務所内にいた職員19名、官舎居住者35名、受刑者及び刑事被告人81名(そのうち中国人32名、朝鮮人13名)計135名全員が即死した」と案内板に書かれてあります。

このほかに、中国人1名が被爆前に死亡しており、他に2、3人の朝鮮人がいたとの推定もあります。

 特に処刑場は、長崎の爆心地近くから出土した数少ない原爆の遺構であり、 市民からは「貴重な遺構なのでそのままの状態で保存を」と要望が出されました。 しかし、それは解体撤去され、平和公園の別の場所に埋め戻されました。 そして、かろうじて刑務所の基盤の一部分が復元され、現在展示されています

 

 ●証言

 「刑務所は完全に焼け、外壁も崩れ落ち、あちこちに何体かの遺体が、 黒焦げに転がっとりました。金沢兄弟の奥さんたちは、うつ伏せになったその真っ黒焦げの 死体の中から主人を探し出しました。兄の方は歯の形で、弟の方はうつ伏せになって腹の方だけ 残ったシャツの柄で分かったとです。本当にもう口では言われん、ひどか有り様でした。確認してから、 遺体を焼いて連れて帰ったとですが、思い出せば、恐ろしゅうて今でも気が遠くなる感じです。」
(張世澤「浦上刑務所で爆死した兄弟たち」)