学校は長崎師範学校の代用付属国民学校で、校舎は師範学校本館と渡り廊下で結ばれた木造2階建てでした。近辺に三菱造船所船型試験場や三菱兵器製作所がありました。被爆当時は、全児童数が本校1078人、分校141人で、本校教職員16人でした。また生徒は、三菱兵器関係の軍需工場に動員されていました。原爆により校舎は全壊し、職員4人、生徒約60人が犠牲となりました。当日は生徒は登校しておらず、教職員だけが校内にいました。しかし、生徒は動員先や自宅などで被爆しました。そして、師範学校から発生した火災による延焼の危険がありましたが、教職員の必死の消火活動により、火災まぬがれました。戦争が終わっても学校は授業再開のめどがたってませんでしたが、師範学校の本館を仮校舎として、9月半ばに再開されました。そして、1946年に126人の死亡児童の全体調査を行いました。その後24年経った1970年に当時の調査記録が見つかり、新たな悲しみを呼び覚ましました。 ●4年 山下 春代 ●5年 池田 光義 ●3年 増田 茂 ●2年 池田 陽志 |