常清高等実践女学校(『原爆被爆記録写真集』より)

  

●当時、常清高等実践女学校は浦上天主堂近くの上野町にあり、フランス系の「幼きイエズス会」の女子修道院をかねた学校で、古風な赤レンガの2階建ての講堂と木造校舎6棟からなっていました。戦時中、宗教行事の禁止などの圧迫の中で、60年間も日本のために尽くした外国人修道女たちは、神戸に強制連行されていました。原爆により木造校舎は倒壊、焼失し、レンガ造りの講堂がわずかに原形をとどめるのみでした。軍需工場となっていた県立盲唖学校に動員されていた生徒200人、教職員12人は見るも無惨に死んでしまいました。「その夜、一晩中美しいラテン語の讃美歌の合唱がとぎれとぎれに聞こえてきました。夜が明けてみると、学園の運動場の草むらの中に、7、8人の修道女がひとかたまりになって、手を取り合い冷たくなっていた」(瓊浦女学校『白夾竹桃の下』田崎光枝)と記されています。学校は戦後一度は再開されたものの、1949年廃校となり、「原爆で消えた女学校」となりました。しかし、その志は現在、長崎信愛幼稚園に引き継がれています。


平和の乙女の碑  (1952年、建立)


●園舎の中央部にある石段の傍に、幼い子供を抱いた美しい聖母の像があります。
 台座の正面には「世界が平和になるように」の文字があり、裏面には「昭和20年8月9日慰霊、原爆殉難常清高女、職員生徒園児修女」の文字があります。そして右面には「世界の平和を祈りつつ 原爆に逝ける乙女に捧げる」と刻まれています。