学校は長崎師範学校の代用付属国民学校で、校舎は師範学校本館と渡り廊下で結ばれた木造2階建てでした。近辺に三菱造船所船型試験場や三菱兵器製作所がありました。被爆当時は、全児童数が本校1078人、分校141人で、本校教職員16人でした。また生徒は、三菱兵器関係の軍需工場に動員されていました。原爆により校舎は全壊し、職員4人、生徒約60人が犠牲となりました。当日は生徒は登校しておらず、教職員だけが校内にいました。しかし、生徒は動員先や自宅などで被爆しました。そして、師範学校から発生した火災による延焼の危険がありましたが、教職員の必死の消火活動により、火災まぬがれました。戦争が終わっても学校は授業再開のめどがたってませんでしたが、師範学校の本館を仮校舎として、9月半ばに再開されました。そして、1946年に126人の死亡児童の全体調査を行いました。その後24年経った1970年に当時の調査記録が見つかり、新たな悲しみを呼び覚ましました。


●4年 山下 春代 
 西町にて被爆、8月9日死亡。当日、妹・照代その他友達と家付近に於いて遊技中、爆風にて池の中に落ち死亡す。

●5年 池田 光義
 家野町にて被爆、8月10日死亡。国民学校前の田にて全身丸焼け、家に来たときはあまり苦しまず、夕方より朝にかけて苦しみ、朝10時死亡。

●3年 増田 茂
 西町にて被爆、8月21日死亡。森の中に遊んでいるとき遭遇する。外傷なきもガスを吸収している模様。

●2年 池田 陽志
 西町1500番地にて被爆、8月16日死亡。8月9日原子爆弾爆発の時は家屋内に兄弟5人居合わせ、爆風のため屋内の片隅に吹き飛ばされ、材木の下敷きとなり、頭部数ヵ所を負傷するが、姉に助けられたのだが、溝に隠され仮死状態となりいるところを、父に助けられ、8月17日午後3
時死亡。