永井博士は、放射線医学の研究と治療に従事するなかで、慢性骨髄性白血病にかかり、余命3年と診断されます。1945年8月9日、永井緑夫人は現在の「如己堂」のある上野町の自宅にて爆死し、永井博士は 長崎医科大学で被爆、重傷を負いました。永井博士は、当時長崎医科大学物理的療法(レントゲン)科主任の助教授で、被爆直後から第十一医療隊三山救護班の隊長として被災者の献身的な救援に奔走し、8月から10月までの2ヶ月間にわたる救護活動を『原子爆弾救護報告』にまとめています。この生々しい記録は、あとで世に出た『長崎の鐘』その他の作品集の原点となっています。博士は翌年、白血病で倒れますが、病床から『ロザリオの鎖』『生命の河』『長崎の鐘』『この子を残して』『花咲く丘』『いとし子よ』『亡びぬものを』『乙女峠』等々、数多くの著作を発表し、1951年5月1日、43歳で亡くなりました。


 地球ガ裸ニナッタ

 市民ハ先ズ異様ナ爆音ヲ聞キ、スグツイデ非常ニ明ルイ白色ノ閃光ヲ見タ。地表ハ美シク紅色ニ光ッタト云フ人モアル。之ヲ市民ハ『ピカリ』ト名付ケタガ、全ク晴天ノ霹靂ノ如クピカリト眼ヲ射タ。‥‥‥爆心近クノモノハ同時二熱ヲ皮膚ニ感ジタ。次デ爆風ノ如キ爆圧ガ襲来シタ。地上一切ノモノハ瞬時ニ粉砕セラレ、地球ガ裸ニナッタ。
‥‥‥タダ『アッ』ト叫ンダ間ニ浦上一帯ハカク変相シテイタノデアル。唯一瞬間ニ。‥‥‥

(永井 隆『原子爆弾救護報告』より抜粋、原文の片仮名は現代かなづかいに改めてある)

廃墟と化した長崎医科大学(米軍撮影:爆心より東約600メートル)

原爆被爆記録写真集より