長崎高等商業学校(長崎大学経済学部の前身)の学生時代から、自由律俳句の荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)に師事して俳句を学び、俳句誌『層雲』の主要な同人として活動しました。長崎商業学校の教諭から食糧営団に移り、その勤務中に被爆、妻子4人をそのときに失いました。

 彼はその極限における悲しみ、痛み、怒りを俳句にして次々と表現していきました。伝統詩型にこだわらない、自由律の形式を若い頃から選んでいました。原子爆弾という未曾有(みぞう)の破壊兵器による人類初の被害を文学表現に託するには、この詩型は特に適していたと思われます。

 しかし、その原爆句はアメリカ占領軍のプレスコード(報道管制)により発表することができませんでした。この原爆詠(句)が一般的に読まれたのは、1955(昭和30)年8月に刊行された『句集 長崎』が初めてでした。


 いまわのきわに―原爆句抄

    ★八月九日 長崎の原子爆弾の日。
     我家に帰り着きたるは深更なり。
 月の下ひっそり倒れかさなっている下か

    ★十日 路傍に妻とニ児を発見す。
     重傷の妻より子の最後をきく(四歳と一歳)。
 わらうことをおぼえちぶさにいまわもほほえみ
 すべなし地に置けば子にむらがる蝿
 臨終木の枝を口にうまかとばいさとうきびばい

    ★長男ついに壕中に死す(中学一年)。
 炎天、子のいまわの水をさがしにゆく
 母のそばまではうでてわろうてこときれて
 この世の一夜を母のそばに月がさしてる顔
 外には二つ、壕の中にも月さしてくるなきがら

    ★十一日 みずから木を組みて子を焼く。
 とんぼうとまらせて三つのなきがらがきょうだい
 ほのお、兄をなかによりそうて火になる

    ★十二日 早暁骨を拾う。
 あさぎり、兄弟よりそうた形の骨で
 あわれ七ヶ月の命の花びらのような骨かな

    ★十三日 妻死す(三十六歳)。
 ふところにしてトマト一つはヒロちゃんへこときれる

    ★十五日 妻を焼く、終戦の詔下る。
 なにかもかもなくした手に四枚の爆死証明
 夏草身をおこしては妻をやく火を継ぐ
 降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾りつ