この手記は被爆後4年、あるいは6年目にかれた長崎の子供たちの作文です。

 この『原子雲の下に生きて』という手記を編集した永井隆博士は、序文にこう書いています。

 「この本を世におくる目的は、原子野の子供らの叫びをひろく響かすことであるその叫びとは、──戦争はいやだ! の一言である。・・・・・
『げんしばくだんは、ひどかバイ。痛かトバイ。もう やめまっせ!』・・・・」

 こうして、このあとに、当時、まだ幼い子どもであった37人の生徒たちの手記が寄せられています。そのなかの3人の手記の一部分を次に紹介します。


●辻本 一二夫 (当時5歳)
 僕は、山里小学校に入った。いまは4年生だ。あの運動場は、すっかりかたづいて、たくさんの友だちが、大よろこびで遊びまわっている。あの友だちは、ここでたくさんの子供が死んで、焼かれたことを知らない。
 僕も、友だちといっしょになると、元気で運動場をとびまわって遊ぶ。けれども、どうかしたときには、ふっと、あの日のことを思い出す。
 そして、お母さんを焼いたその所にしゃがんで、そこの土を指でいじる。
 竹で深くいじると、黒い炭のかけらが出る。そこの所を、じっと見ていると、土の中にボーッとお母さんの顔がみえてくる。
 ほかの子供が、そこの所を足でふんで歩くのを見ると、腹がたつ。
運動場へ出るたびに、僕は、あの日を思い出す。運動場はなつかしい。そして悲しい。

●萩野 美智子 (当時10歳)
 お母さんは、私たちのおひるに食わすナスを、畑でもいているとき、ばくだんに、やられたのであった。上衣もモンペも焼け切れ、ちぎれとび、ほとんど丸はだかになっていた。髪の毛は、パーマネント・ウエーブをかけすぎたように、赤く短く、ちぢれて切れていた。体じゅうの皮は、大やけどで、ジュルジュルになっていた。‥‥‥さっき、ハリをかついで押し上げた右肩のところだけ、皮がペロリとはげて、肉が現われ、赤い血がしきりに、にじみ出ていた―‥‥‥。
 お母さんは、ぐったりとなって倒れた。そこへ、お父さんが、よろめきながら走ってきた。‥‥‥お父さんも大やけどを受けていた。

 お母さんは、苦しみ始め、もだえもだえて、その夜、死にました。

●下平(旧姓 川崎)作江 (当時10歳)
 1日じゅう掘り探して、とうとう黒いものを掘り当てた。元気づいて、さらに掘りひろげてみたら、やっぱり死がいだった。母だろうか?‥‥‥姉だろうか?‥‥‥それとも、よその人だろうか?‥‥‥どんどん掘りひろげて全身を出していった。体はすっかり黒こげになっていた。‥‥‥いよいよ頭になった。
 顔は―ふしぎなことに、焼けないで、そのままだった。姉だった。毎日毎日、会いたくて会いたくてたまらなかった姉だった。その顔をみたときの私のうれしさといったら‥‥‥思わずニコニコしたほどだった。
 それから、急に悲しくなって泣いた。
 残るは母ひとり。私は次の日も、また次の日も根気よく、母を探しまわった。そのかいがあったのか、母の魂が引っぱっていったのか、とうとう近所のゆきつけの家で、母の死がいが見つかった。―母はその家のおばさんと向かい合って死んでいた。きっと何か話こんでいた所だったろう。
 私たちは、母の死がいを取囲んで、泣いたり、ほっとしたりしていた。

小さき十字架―ナガサキの子ども手記集―(長崎の証言の会・編)より抜粋